平岡歯科とバスケットと私
「秋山、お前キャプテンやって最後の大会だったんだから、MVPはお前にやるよ。」
歯科大学最後の全国大会、通称「デンタル」。
有終の美を飾った試合後、チームメイトの一言とともに手渡されたのが、金色に輝くバスケットボールだった。
主幹校の先生がロサンゼルス五輪で手に入れたという、由緒ある"ゴールデンボール"。
今も私の手元で、あの時代の汗と笑いを静かに映している。
テクニックが飛び抜けていたわけでも、得点王だったわけでもない。
体力だけが取り柄の私が、なぜか4年生でキャプテンを任され、チームは公式戦でわずか2敗。
つまり、出場した大会のほとんどで優勝を飾ったということになる。
6年間、ほぼ毎日バスケットの話ばかりしていた。
練習が終われば、当然のように居酒屋へ直行。お酒は"燃料"のようなものだった(笑)。
そんなバスケ漬けの学生生活を、後に日本代表監督となった川島淳一先生は「お前らと話してると楽しいよ」と笑ってくださった。
全国的にも名の知れた坂田コーチからは、試合前に「人を感動させる人間になれ」といつも喝を入れられた。
卒業後もチームは勢いを増し、平岡コーチ体制のもと、「3連覇の日大バスケ」と呼ばれるまでになった。とにかく"濃い"人たちが集まっていた。
そもそもの始まりは入学直後。
どこの大学でも恒例のクラブ勧誘シーズン、私は「大学生活はテニスで華やかに」と密かに夢見ていた。ところが、なぜか通りすがりの先輩に「こっちこっち」と案内され、気づけば体育館でバスケ部の紹介を受けていた。後で聞けば、クラブ同士で"勧誘トレード"があったらしい。
そこから私のバスケ人生が、再び始まった。
そして出会ったのが、後に"親友"となる平岡と増岡。
1年生の頃から3人でつるみ、なぜか「バスケ部3悪」と呼ばれていた。
広島出身でやたら目立つ平岡、旭川出身のロン毛族上がり・増岡、そして横須賀出身の"ヤンキーみたいなやつ"秋山。
どう見ても問題児トリオだったが、バスケへの情熱だけは誰にも負けなかった。
平岡は常に発想がユニークで、戦術眼にも優れていた。
後に日本大学の理事にまで抜擢されるほどの人物であり、なんとその平岡こそ、現在私が移転開業したクリニックの前院長でもある。彼は今年(2025年)1月にこの世を卒業し、この場所を残した。
人生の縁とは不思議なものだ。
その平岡に誘われ、大学卒業後に参加したのが「代々木八幡バスケットボールクラブ G.G.C」。
地元の人々を中心に、全国から多彩なメンバーが集まる社会人クラブだった。
職業も年齢もバラバラ、それぞれの人生がぶつかり合うような場所。
大学時代以上に"濃い"人たちの巣窟で(笑)、私はすっかり八幡の空気に魅せられていった。
気づけば約10年。代々木八幡は、私にとって第二の故郷になっていた。
あの金色のボールを見るたびに、思い出す。
技術よりも、勝敗よりも、最後に残るのは「人」と「絆」だということを。
あの頃の仲間たちと過ごした日々が、今の私の原点なのだ。

